昭和47年02月11日 朝の御理解
御理解 第42節
「これ程信心するのに、どうしてこういうことができるであろうかと思えば、信心はもうとまっておる。これはまだ信心が足らぬのじゃと思い、一心に信心してゆけば、そこからおかげが受けられる。」
信心は私はそう思うんです。一にも押し二にも押し、三にも押しもう押して行くだけしかないと私は思うのです。信心はですから言うなら押しまくって行く、その元気な心というのが信心にはいるとです。元気な心で信心せよと仰る。生き生きとした心。そこで例えば願いが成就しない、成就しないどころではない、信心しとるのにこう言う様な事が起こるというようなま不祥事でもあると、もうこれ程信心するのに。
終戦、そして、ほとんどの日本の国民が感じたこと。もう神も仏もあるものかと。これ程一生懸命祈願をしておった。一生懸命願っておった。日本は神国だなんと思ったけれども、もう神も仏も信用せんぞと、というような考え方をした人が随分ありましょう。ね、もう神も仏もあるものかというてその、神様も仏様もしまいこんだり、壊した人すらあると。ね、これ程願っておったのに。そういう意味でしょうね、これ程信心するのにどうしてこう言う事が起こったであろうかと。ね。
だから信心というものはね、そういう考え方をしたのでは信心にならないと言う事。信心とは、是はまだ自分の一心が足りんのだと、そこから信心をもう一段進めて行く、とそこからおかげが受けられる。もう一段というかここでは只一心に信心して行けばと仰っておる、只今までの信心が続けられるだけでは、おかげが受けられないと言う事を知らきゃいけません。ですから是はまだ自分の信心が足りんのだという、どこが足りなかったかと言う事、を私は検討さして頂いて成程ここが足りなかった。
ここも間違っておったと気付かせて頂いて、ね、その間違っておった事を考え違いの所を、改めてそして一心と信心して行くから、一段と信心が進むことになる。ただ一心に拝む、一心に参るというただけではね、ここで、そこからおかげが受けられると言うことにはなってこないと思う。ね、そこからのおかげが素晴らしい。そこからの一段と信心を進めた信心が、どうでも求められるわけであります。もう随分昔の話で、もう二十年にもなりましょう。前に頂いた御理解でしたけれどもね。
拝まにゃとうさんということを頂いたことがあるんです。ね、御理解にね、改まらにゃ通さん、研かにゃ通さん、これは信心のかていというか、信心を今日の御理解でいうならば、一心と信心をして行くということは、一心と今までの信心ではこういうことになったのだから、今までの信心ではいけない、と一段と信心を高める、深めて、ね、そこからまた一心の信心が出来る。そこからおかげが受けられる。神様がそこを願ってござったということが分かる。
だから初めの間は、拝まにゃ通さん、ただもうただ拝むだけ、一生懸命拝むだけ、お参りをしてお願いするだけ、ただお参りをするだけ、それで言うならばおかげを受けます。けども段々信心が分かってくる。ね、この方の道は話を聞いて助かる道と仰るのですから、もう必ずこうしてお話しをさしてもらう。ですからそのお話が段々身に付いてくる。ね、そこからどういうことになってくるかというと、まず分からせて頂くのは、自分が分かるということになる。
この頃、平田会長の話の中にも、それを言うておられましたですね。信心が分かった信心が分かったと言うて何が分かったか、ね、信心が分かったということは、自分自身が分かったということだと言うておられます。ね、皆さんもお聞きになったでしょう。信心が分かるということは、ね、天地の御恩徳や天地の道理が分かる。なるほどそれも分かることでしょうけれども、本当の意味においての信心というのは、ね、分かっただけでは何にもならん。ね、
おかげの頂ける分かり方というのは、信心を段々させて頂いておるうちに、愈々自分自身の姿が分かって来たと言うことなんだ。ね、だから改まらなければおられないことにならなければならんのに、ただ参るばっかり只拝むばっかり成程拝まにゃ通さんと仰るから、一生懸命拝んだり、おかげを頂いたと言う所もある。そりゃもう拝まんでもおかげを頂く、ね。お願いをする、御取次を頂く、おかげを頂いた。昨日もお月次祭にある方がお参りして、はじめてお月次祭に参ってきた。
一ヵ月間寒中修行にお参りしてきた。もうそれこそ口にも筆にも尽くされんほどしに、自分の心の中におかげを頂いた。ほんに死のうか生きろうかとまで思うた。いろんな難儀な問題がです、ね、もうここまで来れば大丈夫という位に自分の心の中におかげ頂いた。だから初めてお月次祭に参らんかと進められて、昨日参って来てから、御初穂、沢山の御初穂しよんなはる。「あんたそげん沢山することはいらんがの、千円ばかりでよかよ」ち、そう導いた人が言うたところが。
「うんにゃ、もうこれぎりでお参りせんかん知れんけん、お礼のつもりで、まかばっとお供えするという意味でしょう」と言うたと言われるのです。それこそ、ね、死のうか生きろうかという難儀な問題がです、ただ参ってきただけでもおかげを受けておる。そこでそのお導きした方が、お祭のあとにお伺いしなんことがあからというて、茶の間に見えられましたから、まあ、お茶でもあげながら、まあ、神様のご都合ですなー、もう今晩がいわばお礼参りしたから。
もう後は参らんでんよかと、もう自分な是位助かったからと言う事だったらしいですけれども、信心のいうならば愈々深さというか、ね。広さといったと言った様な、皆さんの御信心振りを聞かせて頂いて特に昨日は、丁度一足遅れて、秋永先生が参りまして、秋永先生がおかげを受けて行かれておることを、まあそう言う事は知らんなりに、話しておられる。本当にもう今日なんか、私はお祭を仕えさせて頂いておりましたら、本当に有難うして有難うして。
何時の間にこういうふうに有難うなってきたじゃろうかと思うたという話を秋永先生がしておる。信心ちゃね、何時の間にこのように有難うなってくるだろうかと言う。しかも、またこれからどげん有難うなるだろうかという、それが信心だ。ね、難儀な問題がここに解決したというだけでおかげを頂いた。それで私が申しました。「今日あなたがどれだけお供えできなさったか知らんけども、まあお月次祭たびには、一応そのくんらいのお供えが出来るくらいにいっちょおかげを頂きなさい」ち。
お金はもう腐るごと持ってあるかたですからねこの方は。だからそげん言うた事でした。本当に何時の間にか段々信心させて頂いておったら、有難うして有難うしてしかもそれが何時の間にこの様に有難うなっただろうかと、その事がですもう是は秋永先生が言っておられる事ですから、秋永先生の信心をなら二十年間振り返ってみてです、私どんも初めはおかげ頂きたいばかりで参りよった。そこから、ね、所謂おかげを頂いておった。ね、拝まにゃ通さんとおっしゃるけん、一生懸命拝みよった。
次にはそれでもどんこん出来ん、いや信心しよってどうしてこげなことが起こるだろうかというようなことに直面した。そこからこげな信心ちゃいかんぞというので、改まるということにも、一生懸命にならして頂いた。人が、「秋永先生、あんたは二人見るごとなった」と言われるように段々なってきた。ね、そうしよってもまた難儀な問題が次々と起きてきた。そこでただこれは改まっただけじゃいかん、そのことを通して、ひとつ本気で魂が清まって行くことのための。
いわゆる研くことに精進しなければいかんなと言う様な事が内容だと私は思うです。そこにです、どうして何時の間に、こういう風に有難うなってきただろうかと実感としてですよ、人にも話せれるような内容というものが、そんなら、もうあなた、秋永先生も淋しいこっどんあんなさるまいと。まあとにかくまあないですなと。けども、淋しいと言うても、その淋しさがまた有難いという信心に段々ならして頂いておると、そんな話を聞かせて頂いて、金光様の御信心のいわゆる深遠さ。
昨夜のね、昨夜の御理解を頂きよるとなかなか、そりゃ難しい。けれども難しいからこそ楽しいのである。有難いのである。しかもそれが限りないときておる。限りないおかげを頂いて行くために、そういう信心を、しかも何時の間にこのように有難うなっただろうかと、例えば十年も信心をしよってから、有難うならんなんておかしいことですよ。愚痴不足ばっかり。ね、それこそ「十年と信心が続いたら、われとわが心を祭れ」と仰る程しなんです。
金光様の御信心は言うなら、吾と我が心を拝みたいごたる心の状態と言うものがです、段々開けてこなければならない。ね、一心に信心して行けばそこからおかげが受けられるというのは、ね、所謂拝まにゃ通さんぞと、次には改まらにゃ通さんぞと。さあ研かなければおかげが受けられんぞと言う様にです、私どもそこからの信心というものが、そういうことになってこなければならない。だからこそ信心が尊いものと言う事になる。願った願いが成就した、それでもうよかと言うことはない。
カバッとお礼のお供えでも出来たらそれでこと済んだ。さあ他の信心ならいざ知らず、祈願成就祈願した事が成就したから、ね、幟の一つもお供えすりゃそれで祈願成就のしまいになる。だからお道ではそういうのを信心とは言わんのです。過去日本人がして来た信心はそういう信心であった。だから悲しい時の神頼みと言う事だけで終わっておるから、そう言う事を信心と思うておるから、これほど願ったのに、すがったのに日本が負けた。もう神も仏もあるもんかと、言う事になってしまったわけなんです。
十年経ち、二十年経ちして行くうちに、成程負けておって良かった。あれで勝ってでんおるならどげんなとったじゃろうかと言う様な、実際おかげになってきて、おるのだけれども、その時は分からん。御理解三十七節に、「生きておる間は修行中じゃ、ちょうど学者が年をとっても眼鏡をかけて本を読むようなものであろうぞ。」と仰せられておられとる。ね、一生が修行じゃと、しかも、その修行の過程がです、大体それを内容を重点を、内容の重点を分けてみると、ただ今申しますように。
ただ一生懸命拝んだという時代から、本気で信心が段々分からせて頂くようになったら、ね、信心が分かることは自分が分かることだと言う様な、いわば今まで考えたこまなかったことが分かるようになる。そしてもう自分な悪いことはせんからとばっかり思うておった。自分の心の中にです、ね、それこそ泥棒じゃろうか、がんどうじゃろうかと言う様な心が潜んでおることに気がついたり、もう汚れに汚れ果てておる自分に気付かせてもらう。ね、自分の心の内容の貧弱さ、浅ましさに驚くばかり。
信心が分かるというのは、自分が分かるということだと、これはもう極言。たとえば平田会長がしとられるように、ね、分かるから改まらなけえればおられないことになってくる。ね、それをお話は頂いとっても分からんから、何時まで経ってもただ拝むだけで一生終わってしまうというような信心ではおかげになりませんね。信心の光というものは、やっぱり信心は光だとこう思う。心の中にそれこそ真暗であった心の中に、信心の灯火が、灯るから、ね、今まで気が付かなかったところに。
真暗であったから分からなかったけれども、明かりがここに入ったから、その灯りに照らし出されるところの自分というものを、見極めるようになる。その明かりが段々大きくなってくるから大きくなってくる程、自分の心の範囲というものが、広く深く自分というものがいよいよ分かるようになる。そこから改まりの生活が始められる。私は本当に改まらにゃ駄目です。ね、そこから今度はいわゆる今度は研いて行くということ。そのことを以て研く、そのことを以て改まる。
昨日の御理解を借りると、お前は泥棒だと言われてもです、俺が何時泥棒したかとむきにならずに、ね、そう言われたことをまず認めなければならない。ね、同時に忍ばねばならない。ごんべんに忍という字を頂きましたですね。認めるということ。成程自分の心の中に泥棒のような心があった。乞食のような心があったと自分で分からせてもらう、ね、そこまでが改まりなんです。自分が分った。それから研いて行くのである。そうするとです、自分に泥棒と言うた人、がんどうだと言うた人にです、ね。
お礼が言いたい様な心が生まれてくる。それが研くからです。光を放ってくるのです。血の涙の出るように腹の立つと思うておったことが、有難涙に変わってくる。これは改まって研いた姿がそれなのです。仇のように思うておった人を、拝まなければおられない心が、研くことによって光を放った姿だと私は思う。信心は楽しいですよ。本当にそういうようなですね、深遠なところに信心が触れて、本当に何時の間にこのように有難うなって来ただろうかと。
自分でも自分の心の中に、手を合わせたいような心がです、私は本当の人間の幸せというものではなかろうかと思う。そういう心におかげがあるのです。皆さんが現在ただ一生懸命拝むだけのところを通っておられる方は、それでももっともっと本気で拝むことの稽古をさしてもらにゃいけん。ポンポンと手を打ってからもう、ちっと拝んでからツーと帰る人がある。勿体ない「もうこらこらもちっとゆっくり拝まんの」ちここから言いたいような感じがする。
もう親先生にお願いしとるけんでち。もうあそこで御理解頂きよっても、御理解も頂かずに帰る人がある。惜しいことである。またと聞かれる御理解じゃないのに。ね、まあ程度ですから、そういう程度のところもあって良かろうけれども、そこへ止まっておってはならん。そこでおかげが受けられんならば、信心しておってどうしてこういうことがということになって来るのならばです、ね、そこからいよいよ自分が分からせてもらう信心にならしてもらうために、御教えをいわゆる拝聴しなければならん。
そこから分かってくるのが自分の姿。そこから改まるということになってくる。学者が眼鏡をかけて、年をとってでもやはり本を読むように、読まなければおられない。自分の学識というものが学徳というものがついていくとがはっきり分かる。勉強しなければおられない。それが学者である。もうあれだけの勉強したっちゃから、まだ勉強せんならんだろうかというようなことはない。
私は御本部参拝するたんびんに豊美のところに行ってから思うのですけども、古川先生なんかですね、もういつもちゃんと書斎で、しかもここで本を沢山な本を前に置いて、ね、眼鏡をいくつも置いて、そして小さい字を、もういわゆる教学の勉強、もうあれだけの言うなら教学の大家であんなさいますからね。古川先生とは、学校も最高の学校を出ておられる。しかも、やんかて八十にもなろうというお爺さんがです、やっぱりちゃんといつも本を読んでおられる。
だから、その分かれば分かる程その深さが分かって行く、その広さが分かって行くことが、もう楽しみでたまらんというようなご様子ですね。成程「学者が年をとって眼鏡をかけてでも、本を読むようなものであろうぞい」と仰せられるような信心も同じこと。けどもその信心も、ただ拝み信心で終わったらそれっきり。改まることに研くことにいよいよ焦点を置かせて頂いての信心にならして頂くところからです、ね、信心の有難さというものが段々深くなって行く、広くなって行く。
ああこれがお徳というものであろうかと思うように、お徳を感じる。それが大きくなって行く楽しみがです、ね、やはり、一生が修行というようなことになってくる。その修行の内容が、高度なものになってくるということにならな、ね、これはまだ信心が足らんのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられるというおかげは、今日私が申しましたような、内容を辿っての一心に進めて行くというものでなからないかん。ただ今までの信心ではいけないということである。ね。
おかげが受けられんなら他に工夫しなければいけん。ね、もっともっと本気に改まることに、または研くことに精進さしてもらわなければならん。昨日続けて秋永先生が話しておられます。今日は私と御造営委員長の正義さんと二人で、古屋さんのところへお見舞いにやらせて頂いたという話をしとる。ね、ここでお届けさして頂いたら御神米が下がった。その御神米にお書き下げを頂いた。それには平仮名で「ばかになれあほになれ」と頂いた。あほうじゃなくてねあほばかになれあほになれと言う事。
その御神米を持って、ね、見舞いに行かれた。その前々日まではもう目も開けられない程のもう衰弱しておられて、ものも言われん程しにきつがっておられた。昨日一昨日少しご飯を頂かれたというお届けがあっておった。昨日もまたおかげでご飯がいけた。二人でやらせて頂いたら、今日は当たり前にこう目も開けて、まあ細々であるけれども、いろいろお話しが出来たとこう言うとる。
それで「古屋さん、もう本当に親先生が仰るようにね、いよいよ本当にばかとあほになんなさらなければいかんよ」と言うて繰り返しそのことを申しましたと。まあここの設計をなさったんですから、その後自分が行かれんので、色々心配していろいろあれやらこれやらと説明したりしたいことがいろいろある。「まあそげなことでもあなたは忘れてしまいなさい、て。もう本当にばかになんなさい。あほになんなさい。あなたが来なされんでも、ちゃんとおかげを頂いて出来よる。
だから本気でばかとあほになりなさい」というてです、私は正義さんと二人で話しましたという話をしとりました。「本にこれは正義さんこれはいっちょ本気で、ね、改まらにゃ出来んばい。研かにゃ出来んばい。本気で魂の清まりを願わにゃいかんばい。親先生がばかになれ、あほになれと仰るなら、もう本気で、ね、こん強いうちにばかとあほになっとかにゃ馬鹿らしいばい」というて話したと言う話しをしとりました。
例えばもう本当にです、もう難しかっちゃなかろうかという、もうそれこそものも言われん程に衰弱したりきつくなってから、さあばかになれ、あほになれと言われたっちゃでけんばいち。「正義さん、こりゃもう強いうちにほんとばかにならにゃ馬鹿らしかばい。あほにならにゃいけんよ」というて話したということを聞か頂いて、一同感銘しました。そのことに。「ほんなこつね」と私は申しました。「ほんなこつそうばい」ち。難が難儀なことになってこないと改まらない。
所謂ここで言うならばです、信心しておってどうしてこの様な事が起こってくるだろうかというようなことが、起こってくる前に本気で改まらにゃいかんよと。本気で馬鹿にならにゃいかんよ、あほにならにゃいけんよと、正義さんとそのことを話したとこう言う。そこんところに至ってまいりますとです、ね、どうしてこのようなことがと言うことになってこないのですよ。神様が、おかげを頂きたいと一心に願うから、神様もおかげ下さろうとする働きが始まる。ね。
そこで修行を求め給うたり、または信心しよってどうしてと言った様な事も起こるけども、ね、そこを境に一段と信心を進めさせたいという神様の願いが、そこに表れて来るのであるから、ね、そういうきつい苦しい思いをせんまえにです、親先生がああやって仰っておられる、あれを本気で行の上に表して行かなきゃ、いよいよこりゃいかんばい。ほんにもう死ぬか生きるかちゅうごつあるきつい思いの時に、馬鹿になれ阿呆になれと言われるこっちゃ出来んよというて話したとこう言う。
そうでしょう皆さん。便々とです、ただ不自由しないからというて、そこに腰掛けておる信心ではなくて、絶えず私どもの信心が生き生きとしてです、ね、次の信心への飛躍を願っての、信心を修行を願うて行かなければならないという風に私は思います。信心が足らんのじゃと思い、一心に信心して行けば、そこからおかげが受けられるということは、ね、ただ信心をやめない、ただ信心はつながっておるということじゃない。ね、そこからの信心を求められてあるのである。ね。だからそこからの信心が。
今日はそれを内容として、拝まにゃ通さん改まらにゃ通さん、研かにゃ通さんと言った様な内容を以て聞いて頂いた。最後には秋永先生の例をとってです、ね、信心しておってどうしてこう言う事がじゃなくて、信心しよればどうしてこういう有難いおかげを頂くじゃろうかと、もう有難うなるばっかり、もうその一途を辿らして貰う様にならして頂くためには、ね、どうしてと言う様な事のない程しのおかげをですね、頂く為に。本気で教えを自分のものにさして貰うという信心修行がです、ね。
例えば苦しい事で修行させられるよりも信心修行によってです、ね、同じ苦しいなら苦しいでも、信心修行で苦しいのである程の位尊いか有難いか分らない。痛い思いをしなければ分からんと言った様な事ではね、本当に馬鹿らしい話なのですから。ね、そこからの信心と言わんで済む程しの信心をね、頂いて行きたいというふうに思います。日々が信心修行であるしかも、ね、一生懸命拝む事も。改まる事も又研く事も。ね、
是は区別して申しましたけれども、切り離すものじゃありません。是が一つにならなければ嘘ですいつも。ね、けれども信心の浅い時信心が所謂初心の時には、只拝むだけですけれども、段々分からせて頂く所から、愈々自分が分からせてもろうて、ね、そこから改まる事に研かして頂く事に、焦点を置いての信心にならせて頂いて、ね、どうしてこう言う事が起こるだろうかでなくて、ね、何時の間にこういうふうに有難とうなって来たじゃろうかという信心に、ひとつならせて頂きたいと思うですね。
どうぞ。